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シュワルベ派でしたが初めてミシュランにしてみました。厚くて重いですが、丈夫そうです。楽しいポタリングもパンクしたらテンションが下がります。レースに出場するのではないので、多少重くてもパンクしづらいのならOKです。 
世界のミシュランですから、文句の付けようがありません。タイヤの方で耐パンク性能の高いグレードにしたので、チューブは耐パンク性能よりもエア漏れの少ないAIRSTOPを選択しました。 
この商品、ホイール側から、バルブの押さえが出来無いので注意が必要。(ねじ山切れてない)だからと言って、外れるような事は無いと思うが・・・交換したばかりなので、耐パンク性能等は不明。通勤やチョイノリ程度であれば、問題も無いとは思う。性能云々よりも、値段が安いのでよしとする。

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

主の昇天



写真は2枚ともシャルル・ド・フーコーCharles de Foucauld(1858-1916)のもので、左は若い頃、右は晩年のようです。
フランシスコ教皇は先日5月15日にシャルル他10名を列聖しました。

●主の昇天(祭)
 聖書箇所:使徒言行録1・1-11/ヘブライ9・24-28, 10・19-23/ルカ24・46-53
          2022.5.29元寺小路、亘理教会にて
 ホミリア
 今日は主の昇天の祭日です。イエスは復活して40日に渡って弟子たちに姿を現した後、天に上げられたという出来事を祝います。今日の第一朗読で読まれた使徒言行録やルカ福音書に基づいてこの主の昇天を祝っています。目に見える形での出現は終わりますが、弟子たちはその後、約束された聖霊を受けて教会の活動を始めていくことになります。
 第二朗読はヘブライ人への手紙(ヘブライ書)ですが、そこにはイエスの昇天の大切な一面が示されています。分かりにくい言葉もありますが、要するに、「キリストは天そのものに入られた」それによって「新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった」だから「信頼しきって、真心から神に近づこうではないか」これが要点です。
 イエスが天に上げられたというのは、イエスだけのことではないのです。わたしたちもイエスと同じように、神に近づくことができる!ここには「地上の生涯を終えたのち神のもとに行く」という面もありますが、それだけでなく「この地上の生涯をとおして神に近づいていく」という面も大切です。それが「新しい生きた道」なのです。
 この「新しい生きた道」について、三つのことを話したいと思います。

 まずこの道が「神と人とを結ぶ道」だということです。
 ヘブライ書はイエスを「大祭司」と呼んでいます。神殿でいけにえを捧げる祭司という意味ではありません。神と人とをつなぐ、神と人との橋渡しをするのがもっと本質的な祭司の役割です。イエスはその祭司の本質的な役割(祭司職)を果たされたからこそ、本当の大祭司だというのです。「橋渡し」のイメージ。こっちの岸と向こうの岸をつなぐために、こっちの岸にもしっかりつながっていなければならないし、あっちの岸にもつながっていなければならない。
 そこで「兄弟」という言葉が大切になります。それはイエスとわたしたちとのつながりを表す言葉なのです。決定的な表現が2章17節にあります。
 「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」
 イエスは徹底的に神に従い、神とつながっていた。と同時に、徹底的に兄弟姉妹とつながっていた、だから神と人との間の橋渡しになれたのです。このイエスの切り開いた道、イエスの架けてくださった橋を通って、わたしたちは神に近づくことができるのです。

 「新しい生きた道」。これは「道」なのです。イエスが歩いたことによって、できた道。その道の上に乗っていれば、自動的に神の元に行ける、そんなエスカレーターのようなものではないのです。エスカレーターや動く歩道ではないので、わたしたちも自分の足でこの道を歩んでいかなければならないのです。
 ヘブライ書13章はヘブライ書の最後の勧告(生き方の勧め)ですが、その冒頭に「兄弟としていつも愛し合いなさい」という言葉があります。「兄弟愛をいつも持っていなさい」とも訳されます。ギリシア語でphiladelphiaという言葉が使われています。アメリカの都市の名前にもなっていますが、「兄弟愛」という意味です。イエスが人々を兄弟姉妹とする道を歩まれたように、わたしたちも互いに兄弟姉妹として大切にするように、ということです。3節にこういう言葉があります。「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」ただ単に可哀想だから愛するのではないのです。自分も同じ痛みを知るものとして、同じ弱さを担っているものとして愛する、兄弟姉妹として愛するというのは、こういうことでしょう。
 これがわたしたちの歩む道です。神に従い、すべての人を兄弟姉妹として生きる道。

 フランシスコ教皇の回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」(2020)も思い出します。この回勅の最後のところで、教皇はシャルル・ド・フーコーについて語ります。シャルル・ド・フーコーは1858年フランスで生まれ、トラピストの司祭になりましたが、当時フランスの植民地であった北アフリカ・サハラ砂漠で、徹底的に弾圧されていた遊牧民トゥアレグ族の中にたった一人で入っていき、そこで彼らと共に生活しました。そして1916年何者かによって殺害されました。今年5月15日にフランシスコ教皇によって列聖されました。回勅の中で教皇は「アフリカの砂漠のただ中に見捨てられた、最底辺に生きる人々と一体となる」ことがシャルルの生き方だったと語り、「まさにこの人は、いちばんの弱者である人たちと完全に同一になることによって、ただそれだけで、すべての人の兄弟となった」とおっしゃっています。
 「新しい生きた道」、それはわたしたちが互いに兄弟姉妹として生きる道でもあります。
 わたしは福島県南相馬市に来て六年目になります。実は今は週のうち半分は千葉にいる母の世話をしに行っていますので、このトリプル災害の被災地で本当に何もできていません。でもわたしの願い、そしてカリタス南相馬に集まっているシスターや信徒の願いもシャルル・ド・フーコーと同じだと思っています。それはこの地の人々の兄弟姉妹となることです。この道を歩みたいのです。

 「新しい生きた道」この道についてヘブライ書にはもう一つの素敵な箇所があります。
12章13節「また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」(新共同訳1987)ちょっと意味不明の訳ですが、「道を歩きなさい」と訳されている箇所は、直訳では「轍を作りなさい」です。車輪が通っていった後にできる窪みが轍ですね。
 日本語で「轍を踏む」と書いて「轍(テツ)を踏む」という言葉があります。「前轍を踏む」とも言います。悪い前例に引き摺られて、自分も同じ過ちを犯すことです。「轍」は日本語ではこういうふうに悪い意味で使われているのですが、ここではいい意味です。「自分の足でまっすぐな轍を作りなさい」つまり、あなた方が真っ直ぐに歩いていけば、真っ直ぐな足跡が残る。そうしたら足の弱い人もその真っ直ぐな足跡を通って、真っ直ぐに歩いていける、というわけです。「良いわだちを踏む」というイメージでしょうか。わたしたちが神に従い、兄弟姉妹として生きる道を歩むならば、そこには神に向かう真っ直ぐな道ができていき、弱い人も小さい人も、みんなその道を歩んでいける。
 わたしたちの教会がそういう教会でありますように、祈りましょう。アーメン。



復活節第6主日



満開のエゴノキの花です!
「エゴ」という名前に似ず、花はみんな謙虚に下向きに咲いていて、地味にきれいです。

●復活節第6主日、世界広報の日World Communications Day
 聖書箇所:使徒言行録15・1-2, 22-29/黙示録21・10-14, 22-23/ヨハネ14・23-29
          2022.5.22カトリック原町教会にて
 ミサのはじめに
 復活節第6主日。「世界広報の日」という日にあたっています。英語では「World Communications Day」。教会の広報活動や社会の中のマスメディアのあり方、さまざまな新しいコミュニケーション・ツール、そして個人と個人とのコミュニケーションの問題。多様なテーマについて考えながら祈ります。
 来週日曜日に日本では「主の昇天」を祝いますが、本来、主の昇天の祭日は木曜日でした。それを日曜日に移して祝っているので、日本では復活節第7主日が祝われません。そのため、復活節第7主日の聖書箇所を第6主日に読むことができるようになっています。第二朗読と福音はこちらを使って、今日のミサを祝うことにします。

 ホミリア
 「みなが一つになるように」今日の福音にあるように、これがイエスの最後の祈りでした。キリストを信じる人々が一つになっていたら、「あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」とイエスは言われます。それくらい大切なことなのに、キリスト教は歴史の中で分裂を繰り返してきてしまいました。今の教会の中にも分裂があります。本当に悲しいことです。
 このような分裂はイエスの願いではありません。キリストを信じる者たちが一つになれるように今日特に祈りたいと思います。

 「一つになる」と言ってもいろいろなやり方があります。
 ウクライナとロシアは元々一体だ、と言って、ウクライナに軍事侵攻するような一致もあります。本当にひどいことです。力で一つにしようとする、武力で人を従わせ一つにする。ひどいことです。しかしそれよりももっとひどいやり方があります。それは自分達と違う者を排除して、結果としてみんなが同じになるというやり方です。自分と異なるもの、自分に従わないものを抹殺すれば、全部が同じになります。でもそんなものは本当の一致ではありません。
 イエスが「一つになるように」というのはそういう一致ではないはず。
 
 イエスはおっしゃいます。
 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」
 「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになる」
 イエスと御父との一致に与る一致、これがキリスト者の招かれている一致です。
 父はあくまで父であり、子はあくまで子です。それでも御父のうちに御子イエスはおられ、御子イエスのうちに御父である神はおられる、そういうところにある一致です。イエスが完全に父なる神に聞き従い、父である神はイエスの生涯を通してご自分の愛を現される。イエスの十字架の中に、神が愛である、という神の本性が完全に現される、そういう一致。わたしたちは、このような一致のイメージを持てるでしょうか?

 今年の世界広報の日の教皇メッセージに一つのヒントがあると思いました。
「世界広報の日World Communications Day」の今年の教皇メッセージは「心の耳で聴く」というテーマです。コミュニケーションの中での「聴くこと」の大切さを強調しています。互いのコミュニケーションのために「聴くこと」がいかに大切か、そう語った最後のところで、カトリック教会の中のことを語っておられます。こう言います。
 「シノドスの歩みが始まっています。」
 教皇は昨年秋から、来年の秋にかけて、すべてのカトリック信者が「共に歩む道=シノドスの道」を歩むように呼びかけています。そこでも「心の耳で聞く」ことが大切だとおっしゃいます。
 「シノドスの歩みが始まっています。互いに耳を傾けるよい機会となるよう祈りましょう。交わりは作戦や計画の産物ではなく、兄弟姉妹が互いに耳を傾け合うことで築かれるものです。合唱と同じで、一致に必要なのは一本調子な画一性ではなく、多種多様な声音、多声音です。しかも合唱の各声は、他の声を聞きながら、合唱曲のハーモニーを意識しつつ歌われます。このハーモニーは作曲家が編み出したものではあっても、その実現は、全体と一人ひとりの声による合唱次第なのです。
 わたしたちに先んじ、わたしたちを含む交わりに参加しているとの自覚があれば、シンフォニックな教会を再発見することができます。それぞれが自分の声で歌い、他の声を贈り物と認め、聖霊が作曲する合唱曲のハーモニーを響かせる教会です。」

 「合唱」とか、「ハーモニー」というたとえが語られているのは分かりやすいですね。一人一人の歌う旋律は違うのです。でも勝手に歌っているのではない。他の人の声を聞きながら、ハーモニーを生み出していく、このイメージで今日の福音のテーマ「一つになる」も受け取れたらいいのではないかと思いました。
 「それぞれが自分の声で歌い、他の声を贈り物と認め、聖霊が作曲する合唱曲のハーモニーを響かせる教会」
 本当にそうなれたらいいですね。
 「ミサは一致の秘跡」であると言います。キリストの体である一つのパンに皆が共に与るからです。でも画一的になるわけではありません。みんなそれぞれの個性があり、生まれも育ちも考え方も違います。それでも、キリストにおいて一つなんだ、そのことを表すのがこのミサです。お互いの言葉に耳を傾け合う、お互いの思いを受け取り合う、互いに互いを尊重し合う、そういう教会としてわたしたちの教会が成長していくことができますように、心から祈りたいと思います。



復活節第5主日



先週5月8日は、仙台教区のエドガル・ガクタン新司教が原町教会を訪問し、堅信式のミサを捧げてくださいました。
そのため、幸田の説教もお休みでした。
感謝!感謝です!

●復活節第5主日
 聖書箇所:使徒言行録14・21b-27/黙示録21・1-5a/ヨハネ13・31-33a, 34-35
          2022.5.15カトリック原町教会にて
 ミサのはじめに
 復活節第5主日。福音は「互いに愛し合いなさい」というイエスの教え。もしそれが私たちの中に実現しているなら、復活したイエスは確かにわたしたちの中に生きていると言える、それくらい決定的なみ言葉です。どこまで実現しているでしょうか。
 今日は沖縄が日本に返還されて50年の記念日。「本土並み」のはずだったのに、今も日本の米軍基地の7割が沖縄にあります。それを放置してきた本土のわたしたちの無関心を恥じないわけにいきません。今日は悔い改めの心をもって、特に沖縄のために、そして世界の平和のために祈りましょう。

 ホミリア
 世界は大きな転換点に立っているのでしょうか?
 香港で民主活動家を支援してきたジョゼフ陳日君(ゼン・ゼキウン)枢機卿が、一時的にですが逮捕されました。中国や香港、ミャンマーや他の国にも、一人一人の人間の自由や尊厳よりも、国家・社会の安定・秩序が優先されるという考えがはっきりとあります。
 フィンランドとスウェーデンが長年の軍事的中立政策を転換して、NATOに加盟しようとしています。ロシアが力によって隣国に侵略するのを見せつけられたからです。
 民主主義や平和というものが簡単に踏み躙られ、国家権力や軍事力がものを言う時代になりつつあります。もちろん、民主主義や平和を破壊する行為を許すわけには行きませんが、その結果、対抗する「西側諸国」も軍備をどんどん増強していっています。日本でも防衛力の強化や憲法改変が叫ばれ始めました。時代が変わったのだ、この時代の変化に対応しなければならない、と盛んに言われています。本当にそれでいいのでしょうか。

 21世紀になって、これほど野蛮な破壊や殺戮が行われるのは信じられない、という思いがあります。一部の理性を失った独裁者だけの問題だと考えたい思いがあります。しかしそれだけとも言えないでしょう。アメリカを中心とする経済的な繁栄、文化的な優位から取り残された国や人々、あるいは自分たちの民族的・宗教的・文化的アイデンティティをグローバリズムから守ろうとする国や人々の中に、大きな不満と敵対心が生まれ、育ってきていることを感じないわけにはいきません。国際社会は2000年のミレニアムサミットから始まり、ミレニアム開発目標MDGsに15年間取り組み、その後の15年間はSDGs(持続可能な開発目標)に取り組んできています。その中の大きなテーマは人類の中にある大きな格差の解消です。その格差がある限り、紛争の元はなくならないからです。
 先進国は平和を望んでいます。そこに自分達の経済的繁栄を守るためという面がないとは言えないでしょう。逆に西側の繁栄から取り残された国や人々が暴力や武力に訴えているのだとしたら、それをどうやって止めることができるでしょうか。厳しい現実です。

 その中で宗教者は、仏教者もキリスト者もどうあるべきか、すごく問われていると思います。世界情勢が変わったから、宗教者も考えや態度を変えるべきでしょうか?
 そんなことはありません。わたしたちが生きる根拠、生きる指針は何も変わりません。
 今日の福音はわたしたちキリスト者にそのことをはっきりと示しています。
 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13・34)
 これがイエスの教えです。最後の晩さんの席で、遺言のように、弟子たちに語られたイエスの教えです。
 憎しみに憎しみで、暴力に暴力で対抗しようとするのではなく、憎しみや暴力のすべてをご自分の身に引き受け、極みまでの愛によって暴力と憎しみの連鎖を断ち切ったイエスの十字架の道だけが、本当の神の子としての道であり、平和への道だとわたしたちは信じています。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」これ以外にわたしたちの生きる道標(みちしるべ)はないのです。

 わたしたちは皆、イエスがアッバ(父)と呼んだ、唯一の神の子どもです。ウクライナ人もロシア人もなく、中国人もアメリカ人もありません。日本人も韓国・朝鮮人もないのです。これがわたしたちの信仰の根幹です。そのわたしたちはすべての人と互いに愛し合うように、求められています。
 だから、人間を味方と敵、自国と敵国に分けて、敵対し、殺し合うように誘導する力に屈するわけにはいきません。そのような扇動に乗るわけにはいかないのです。
 わたしたちは人種や国籍、民族や宗教の違いを超えて、互いに愛し合いなさい、というイエスの掟をいただいています。

 わたしたちはこの2ヶ月半、国連安保理も核抑止力も機能しないという現実を見てきました。常任理事国が拒否権を用い、核兵器の脅しを使って、戦争を実行してきてしまったのです。それに対して西側の国々はウクライナを軍事的に強力に支援してきましたが、それによって戦争を終わらせることもできていません。誰もどうしたら戦争を終わらせることができるか、正解を持っていないのです。
 国と国との軍事的なバランスがあれば戦争は起こらない、とか、敵よりも強大な軍事力を持っていれば、敵国からの攻撃を抑止できるというような考えは破綻してしまいました。それでも軍備拡張をするしかないのが人間の悲しい性なのでしょうか。
 「互いに愛し合うことの上にしか、平和は築けない」わたしたちキリスト者は、そのことを改めて言い続けたいと思います。

 「戦争はすべて悪だと、たとえ殺されても言い続けます」
 昨年11月に99歳で亡くなられた瀬戸内寂聴さんの言葉です。わたしも宗教者としてそう言い続けたいと思います。
違う考えを持った方がいらっしゃるかもしれません。わたしは自分の考えを押し付けようとは思いません。ただ、この非常に大きな曲がり角のようなところにいる今だからこそ、わたしたちキリスト者が、もう一度イエスの生き方と教えに立ち返って、本当の平和への道を求め続けることができるよう、今日、このミサの中で祈りたいと思います。


復活節第3主日



右のイコンは、通常「ウラジーミルの聖母」と呼ばれるイコンです。神秘的な美しさを持ったこのイコンは、伝承によれば聖ルカによって描かれました。1131年にコンスタンティノープル総主教からキーウ大公ユーリー・ドルゴルーキーに贈られ、キーウに安置されました。1155年にユーリーの息子アンドレイによってウラジーミル(現ロシア領内)に移され、さらに1395年にモスクワに移されて、今はモスクワのトレチャコフ美術館所蔵となっています。
わたしは「ウクライナとロシアの聖母」と呼びたいように感じています。

●復活節第3主日
 聖書箇所:使徒言行録5・27b-32, 40b-41/黙示録5・11-14/ヨハネ21・1-19
            2022.5.1カトリック原町教会にて
 ミサのはじめに
 復活節第3主日。キリストの復活の光がこの世界を照らしますように。戦争と暴力の闇が打ち払われますように。悲しみと絶望の闇、憎しみと死の闇が打ち払われますように。すべての人のために、すべての人の救いといのちと喜びと平和のために、今日もこのミサをささげます。

 ホミリア
 3月16日の地震はこの近くでは特に南相馬市鹿島区、相馬市、新地町で大きな被害をもたらしました。地震で被害を受けた屋根の応急修理には専門的な技能が必要なので、そのためのボランティアが全国から集まっています。その中のFさんと仲間たちのチームがずっとカリタス南相馬に宿泊しています。まるでコロナ前のような活気が戻っています。ボランティアの来る方々は、ほぼ全員がキリスト信者でない方々です。
 その中の誰かが「キリストは死んで復活したんですね」と言うと、他の人が「それは歴史的事実ですか」とわたしに聞いてきました。そこでわたしはこんなふうに答えました。「イエスという人が2000年前に生きていて、十字架で死んだのは歴史的事実です。でも復活というのは、そのイエスが死に打ち勝って永遠のいのちを生きる方となった、ということで、だから歴史の中で起こったことというよりも、歴史=時間の流れを超えた出来事であるとわたしたちは信じています。その意味で信じるしかない出来事なのです」

 復活というのは信じるしかない出来事です。しかし、歴史の中で起こったこともあります。それは復活したイエスに出会った弟子たちが変えられたということです。福音書にはそのことが記録されています。弟子たちはどのように変えられたのでしょうか。
 先週の福音は週の初めの日の夕方、弟子たちが集まっているところにイエスが現れたという話でした。イエスと出会った弟子たちの中に起こったこと、それはまず「喜び」でした。「弟子たちは主を見て喜んだ。」この喜びは最後の晩さんの席で約束されていたものでした。ヨハネ16章22節にこうありました。「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」ただの再会の喜びではありません。復活したイエスはいつも共にいてくださる。だからどんな時にも喜びを失うことはないのだ。今日の第一朗読(使徒言行録5・41)に、「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜(んだ)」という言葉があります。ユダヤの最高法院で尋問され、鞭打たれ、常識的には喜ばしいはずはないのですが、イエスに結ばれているという喜びはどんなときも奪われることがないのです。

 そして先週の福音の箇所では、イエスが弟子たちに向かって3回「あなたがたに平和」とおっしゃいました。この平和も最後の晩さんの席で約束されていました。ヨハネ14・27「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」これは周囲に何の危険もないという平和ではありません。イエスが神によって満たされていたように、わたしたちも神の恵みによって満たされるところから生まれる平和です。イエスが共にいるから何も恐れることがないという平和なのです。弟子たちの心の深いところにその「平穏、平安」が与えられるのです。弟子たちは復活したイエスから確かに「心の平和」を与えられました。

 そして先週の福音で、喜びと心の平和と共に、弟子たちに与えられたのは「ゆるし」の使命でした。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」あなた方がゆるすことによって、神のゆるしがその人の上に実現する、というのですね。これは最後の晩さんの席でのあの「互いに愛し合いなさい」という使命とつながっています。福音書ではありませんが、ヨハネの第一の手紙にこういう言葉があります。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(一ヨハネ4・12) つまり、わたしたちが互いに愛し合うならば、神の愛がそこに実現するというのです。復活したイエスとの出会いによって、弟子たちはこの愛とゆるしを生きるものに変えられたのです。

 弟子たちの生き方を特徴づけるもの、それは「愛と平和と喜び」でした。そしてイエスの弟子たちの「愛と平和と喜び」が周囲の人々に伝わっていき、イエスを信じる人は次第に増えていきました。それが復活節のミサの第一朗読で読まれる使徒言行録に伝えられる初代教会の姿です。
 イエスの弟子であるわたしたちの中に、愛と平和と喜びが実現しているならば、復活したイエスは今も生きていて、わたしたちと共にいることになる!
 逆にもしわたしたちの中に、愛がなく、平和がなく、喜びがなかったとしたら、どうしてイエスは復活したという信仰が伝わるでしょうか。
 今の世界は神を見失い、非常に暗く厳しい現実の中にあります。その中で、わたしたちキリスト者は「愛と平和と喜び」を生きる使命をいただいているのです。そのことをこの今だからこそ、しっかりと思い起こして、深く自覚したいと思います。
 
 5月になりました。5月はマリアの月と言われています。わたしたちはマリアの中に、本当の意味で「愛と平和と喜び」が実現していると感じています。天使のお告げの場面から始まるイエスの母としての歩みの中で、特にイエスの受難・復活、昇天と聖霊降臨という流れの中でマリアの「喜び、平和、愛」が輝いています。
 わたしたちがマリアと共に「愛と平和と喜び」を生きることができますように。
 マリアの月にあたって、今年3月25日、フランシスコ教皇がささげられた「ロシアとウクライナをマリアの汚れなきみ心に奉献する祈り」の一部を一緒に唱えたいと思います。今年は特に戦争という差し迫った状況の中でマリアと共に平和のために祈りたいと思いました。この中に、「天の大地であるマリアよ、神の調和を世界にもたらしてください。」という言葉があります。「天の大地」というのは耳慣れない言葉ですが、東方教会の修道院の賛歌から採られた言葉だそうです。天に上げられ、神のもとでの「愛と平和と喜び」に満たされているマリアが、わたしたちの世界に「愛と平和と喜び」をもたらしてくださいますように。何よりも、わたしたちキリスト者がまず「愛と平和と喜び」に生きるものとなりますように、心から祈りましょう。アーメン。


復活節第2主日



●復活節第2主日(神のいつくしみの主日)
 聖書箇所:使徒言行録5・12-16/黙示録1・9-11a, 12-13, 17-19/ヨハネ20・19-31
            2022.4.24カトリック原町教会にて
 ミサのはじめに
 古代からのキリスト教の流れには、大きく言って、東方教会と西方教会の二つがあります。西方教会(ローマ典礼のカトリック)では、今日は復活節第二主日ですが、東方教会(正教会や東方典礼のカトリック教会)では、今日が復活祭です。今日の福音では復活されたイエスの言葉「あなたがたに平和があるように」という言葉が3回繰り返されています。キリストの平和とは、キリストがともにいてくださる、だから何も恐れることがない。キリストがすべての人とともにおられるなら、もう武器や争いがなく、すべての人が愛に満たされる、そういう平和です。現実は程遠いですが、でも、復活を祝う今日、その本当の意味の平和がウクライナと全世界に実現しますように、心から祈りましょう。

 ホミリア
 ロシア語で日曜日のことを「ボスクレセーニャ」と言うそうです。これは元々「復活」という意味の言葉です。日曜日のたびに「復活の日」と言うのは素敵ですね。ちなみウクライナ語も調べてみましたが、「ネヂィーリャ」と言って、意味はただの「休みの日」らしいです。ウクライナはキリスト者の多い国ですが、ロシアも元々信心深い国だったのですね。神の御心に背くこの侵略戦争・大量殺戮をロシア人全員が支持しているわけではありません。ロシアの中に、ロシア人の中にも素晴らしいものがあることを忘れないようにしたいと思いますし、東方教会の復活祭である今日、ロシア人の信仰心・良心に訴えて、すべての命の尊重と平和が実現するように祈りたいと思います。

 今日の福音は週の初めの日の出来事と八日目の出来事です。弟子たちの集まりの中にイエスが来られます。週の初めの日=日曜日は、まさに復活の日です。イエス・キリストは生きておられる、そのことをわたしたちは毎週日曜日に記念し、祝い、確認します。二千年前に起こったことではなく、今もキリストが生きておられることを祝うのです。
 二千年前に生きたイエスは神がいつくしみ深い父であり、すべての人を例外なく大切にしてくださる方であると教えました。イエスは、その神の愛を伝えるために、ご自分もすべての人に対して惜しみない愛を示し、最後にはすべての人のために命をささげてくださいました。そのイエス・キリストは今も生きている、私たちはこの復活祭に、そして毎週の日曜日にそのことを祝うのです。

 今日の箇所でイエスは弟子たちが集まっているところに来られます。恐怖に怯え、扉を閉め、内側から鍵をかけている弟子たちの集いの真ん中にイエスは来られます。そして「あなたがたに平和」と言い、弟子たちを信じる者にしてくださいます。最初の日、トマスは一緒にいませんでした。しかし、1週間後の日曜日、弟子たちの集まりの中にトマスもいました。イエスはそこに現れてくださり、トマスを信じる者に変えてくださいます。
 わたしたちも同じ経験をしています。毎日曜日、復活の日に、イエスの約束、「わたしの名によって、二人三人が集まる中に、わたしもいる」と言う約束を信じてミサに来ます。この日曜日の集まりは本当に大切で、ここにこうして集まっているわたしたちの中にイエスは今も生きておられるのです。
 ミサの中で何度も繰り返されるやりとりがあります。「主は皆さんとともに」「また司祭とともに」。今年の待降節から「またあなたとともに」に変わりますが、どちらにせよ、日本語として自然なやりとりでないのは確かです。これは特別な対話なのです。復活された主が今わたしたちの中におられる、そのことを確認し合う、特別な、大切な対話です。「不自然だ」と思うより、「特別なのだ」と感じたいと思います。

 トマスはイエスの復活を疑ったと言われます。他の弟子たちもイエスを見るまで信じませんでした。わたしたちの中にも疑いがあります。本当にイエスは今も生きていると言えるのか、どう考えてもそうは思えないような現実があります。
 11年前の大地震を経験したこの地域が、3月16日の福島県沖地震で、また大きな被害を受けました。度重なる被害に打ちひしがれているような方もおられます。新型コロナのパンデミックも終息の見込みがいまだに立っていません。そしてウクライナでは悲惨な戦争が続いています。わたしたちが当然だと信じてきた国際社会の秩序は破壊されてしまっています。それでもキリストは今も生きている、と言えるのでしょうか・・・

 キリスト教とは、二千年前のイエスと言う方が立派な教えを残された、だからその教えを守って生きていきましょう、という宗教ではありません。あのイエスは救い主であり、あの方は今も生きている。だから彼の方の言葉と生き方のすべては単なる教訓や道徳ではなく、今もわたしたちを支え導く、生きた言葉であり、あの方は生きた存在なのだと信じて、そのイエスとともに生きることです。
 「イエスは今も生きている」それは結論ではなく出発点です。そこからわたしたちは出かけていきます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」今日の福音でイエスがおっしゃるように、わたしたちも生きておられるイエスによって派遣されていくのです。ミサの最後に「行きましょう。主の平和のうちに」という言葉がありますが、いつも今日の福音の場面を思い出しながら、イエスがわたしたちを今日、派遣してくださると感じていたいと思います。
 
 キリストからゆるしを託されて、
 キリストから愛を託されて、
 キリストからいのちを託されて、
 キリストから平和を託されて、わたしたちは今日もここから派遣されていきます。